上は雪化粧をした新宿駅。いつだったか、東京に雪が積もった日があって、その次の日、撮影の仕事で渋谷に行った。撮影の帰り、新宿と高田馬場を何度も往復して、車内からシャッターを切った。新宿を美しいと感じたことはそれまでなかった。東京の雪景色を組写真にしたら面白いと思い、いろいろ準備して次の機会を待ったが、今年の雪は東京を通り過ぎて二度と帰ってこなかった。
昨日は、連載をしている月刊誌の取材で目白台へ行った。取材の帰り、永青文庫と関口芭蕉庵の間の急な坂を下って神田川へ抜けると、江戸川公園の染井吉野が満開だった。花見は、万葉集でも詠まれているほど昔からの日本の風習だが、酒盛りをするなかに外国人のグループもちらほらあって可笑しかった。
先週の土日が古本屋のイベントでつぶれたので、今日はしっかり朝寝をした。これから原稿書きが二件。夜は銀座で撮影。
忘年会 / 新年会
by whitehead on 2013年1月18日金曜日![]() |
| photo / 長谷川シン |
去年の年末はろでぃ氏の自宅での忘年会に参加した。メンバーはろでぃ氏、長谷川シン氏、Thomas Orand氏、私、その他連れ合いも含めて計6人。付き合いも古く、写真の面で尊敬する仲間たちだ。
以前は、写真SNSのFlickr絡みで、毎週のように歌舞伎町やゴールデン街で飲んでいた。日本人だけでなく、海外の写真家達との飲み会にも、頻繁に顔を出していた。写真仲間を集めて写真展を組織したり、写真集の製作をやったりもした。でも今はやらない。人を集めて何かをやる面倒臭さに心底嫌気がさしたのと、自分に出来ることは一通りやったという思いと、何より、写真家としての自分の時間を犠牲にするのに耐えられなくなったからだ。今はただ、少数の尊敬する写真家とたまに飲めればそれでいい。あとの時間は、自分の写真との対話に費やしたい。
今回の忘年会のメンバーとも、昔は大暴れしたものだ(笑)。いろんな写真家と付き合って、結果彼らとの交遊が残ったのは、彼らが人として真っ当だからに他ならない。人間としてどうよ?と思う相手と、そもそも写真について語らう気にはならない。私が彼らとの交遊を好むのは、みな心が広く、情に厚く、そして何より、シャシンに一直線な馬鹿野郎たちだからだ。シャシンなんて、所詮やってもやらなくてもどっちでもいいもの。人としての土台を蔑ろにしてまで、手を出すべきものじゃーないと私は思うが、どうだろう。
さて先日の新年会。こちらは打って変わって、まさに酒宴と呼ぶにふさわしい大人数のもの。ジャーナリストで極道ライターの鈴木智彦氏が主催する宴席だ。このグループは非公開なので、ここで詳しく書かないが、実に楽しい飲み会だった。メンバーは、私のような万年ワープアな写真家から、高名なライターまで多士済々。私がこの会を好むのは、鈴木氏の好みか人望か分からないが、参加する方々がみな「いい顔」をしているからだ。
昔何かで読んだが、映画監督の黒澤明が晩年サムライものを撮らない理由について、「撮りたいと思ういい面構えの役者がいないからだ」と言っていた。確かに黒澤監督の映画を観ると、脇役の騎馬武者や酒場の親父、その他大勢の農民に至るまで、みなゴリッとしたいい面構えをしている。その意味で、鈴木氏が主催する飲み会は、勤め人から元堅気でない方まで含めて、思わずシャッターに指が伸びてしまう「いい面構え」をしていて好きなのだ。そういう方たちの話を聞くと、みな只者ではない仕事をやっている。私もいい面構えになるような本統の仕事をやっていきたいと思った次第。
今年も少しずついろんな仕事が舞い込んで、忙しい1年になりそうだ。これから銀座にairbnbの撮影に行って、それから夜は郵便局。明日は夜にライブの撮影をやって、その後連載の原稿書きを2件片付けねばならない。皆さまもよい1年でありますよう。
Canon EF50mm F1.4 名玉論
by whitehead on 2013年1月11日金曜日![]() |
| EF 50mm f/1.4 (f/1.8, 1/640, ISO200) |
私が愛用しているCanon EF 50mm f/1.4 USMが、世評、評判が悪いのに対して、私は名玉だと思っているので、そのことについて書こうと思う。
カメラの世界に、名機、名玉(良いレンズのこと)という言葉がある。カメラもレンズも、決して安い買い物ではないから、購入するに当たってカメラ雑誌やネットの製品レビューを調べることになる。私もその一人だ。だが、結論から言って、そうした事前情報が当たることはまずない。とくにレンズにおいては。
これは考えてみれば当然のことである。カメラ本体については、スペック(画素数とかセンサーの種類とか連射性能とか)が最も重要であるから、そこに評者の主観が入り込む余地は少ない。だがレンズは、スペック(レンズ構成とかガラスの種類とか)がどうあれ、結果的にその人が撮った写真を通じて評価せざるを得ないので、語れば語るほど主観的ならざるを得ない。そこに、レンズ評価の曖昧さがあると同時に、レンズを語る楽しみもまた存する。
別の角度から話そう。名玉の条件とは何か?
名玉、ということで、私が思い出すのは、Leitz summicron 35mmの8枚玉だとか、Noct-Nikkor 58mmだとか、LeitsのNoctiluxだとか、あまり詳しくないからその程度だ。どれも30〜50万円以上する高価なレンズだ。どれも使ったことがないので、私には分からない。
私にとって名玉の条件、それは「信頼できるレンズ」、その一言に尽きる。
例えば、「写真の仕事で、一本しかレンズを持って行けないとする」というような話の持っていき方で語られることが多いが、そういう場合に名玉は特に必要ない。単にクライアント(もしくは編集者)が求めているであろう絵を想定し、それに対して必要充分な玉を一個持って行けば済む話だ。
問題は、「写真家が、何の求めもなく、ただブラッと散歩するときに、一本しかレンズを持っていけない場合、どのレンズを持って行くか?」である。
これは、「仕事で一本しか」という場合と違って、度々直面する事態である。そして、この時ほどレンズ選びに苦慮することは他にない。なぜなら、写真家が何の求めもなく写真を撮ろうというとき、それは間違いなく写欲が増進している時である。そして、あわよくば良い写真を撮って、新しい写真のテーマを始めたいとか、芸術的な写真集でも作るきっかけにしたいとか、そんな不埒な期待で頭が一杯になっているものだからだ。
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| EF 50mm f/1.4 (f/5.6, 1/800, ISO100) |
そんな時、私は持って行くのがデジタルであれば、私が持つ唯一のデジタルカメラであるCanon 5d Mark Ⅱに、Canon EF35mm f1.4LではなくEF50mm f1.4USMを装着して行く。
なぜなら、この一本を持っていけば、自分だけの狭い表現の隘路に強く踏み込むことはできないまでも、想定されるあらゆる「芸術的事態」に対処できるという信頼を、このレンズに持っているからだ。平たく言えば、一歩引いたフラットな風景描写にも、人が数人映り込んだスナップ撮りにも、対象に一歩迫った深い芸術的描写にも、このEF50mm f1.4 USMであれば、自分が記憶する場面以上の写真的な結果を出してくれると信頼しているからだ。さらに噛み砕いて言えば、F8まで絞れば、シャープなパンフォーカスの風景写真が撮れる。F4〜5.6くらいで、僅かに背景がボケた味のあるスナップが撮れる。そしてF1.8まで開けて撮れば(F1.4ではない)、背景がトロトロにボケて、しかもピントがシャープな深い写真が撮れる。と、まあそういうことだ。しかも、光が強すぎれば半段アンダーで、光が弱ければ1段くらいオーバーで撮れば、色味もしっかり乗って、その後のLightroomでもいじり甲斐のある絵が撮れる。
と、ここまで持ち上げておいて何だが、私はこのEF50mm f1.4を買って3年ほど、クソレンズとしてまったく使ってこなかった。だが、35mmf1.4Lのゴージャスで破綻のない描写に飽きた後、何気に使ってみてこのレンズの素晴らしさに気づいたのだ。それまでは、レンズシステムの要である50mmに、こんなクソレンズを置くCanonの見識を疑っていたが、今では、評判の悪さに関わらず、長年このレンズ構成を変えなかったCanonのブレない姿勢に感銘を受ける。要はそれだけ、レンズの評価というものは難しいということだ。
このCanon 50mm F1.4 USMは、現行のAFレンズには珍しいクセのある名玉だと思う。その意味で、アナログレンズ的な魅力のある渋いレンズだ、というのが私の結論だ。おそらく買ってすぐの人は、使ってみて少し落胆するか、「まあこんなものか」と思う程度だろう。しかし、Canon Lレンズのシャープでゴージャスで破綻のない「平凡な」描写に飽きた後、もう一度このレンズを使ってみて欲しい。絞りによって「線の太さ」が変わり、光や被写体に結果が左右され、撮るときに「うまく撮れてくれ!」と強く念じずにいられない所(これは重要な点だ。デジタルでは中々味わえない「撮影の緊張感」が得られる)、そして扱いに慣れてくれば、予想以上の結果をコンスタントに出してくれるこのレンズの魅力の虜になるだろう。
レンズの良し悪しは長く付き合ってみなければ分からない。それがこの長い駄文の結論といえば結論である。
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| EF 50mm f/1.4 (f/1.8, 1/160, ISO800) |
有馬記念でオケラなクリスマス☆
by whitehead on 2012年12月26日水曜日日曜日、朝起きると先々週撮ったairbnbの写真がページに反映されていた。
日曜日は郵便局の同僚(郵便局に「友達」はいない)と有馬記念に行く約束があった。郵便局という所は実に知的な職場で、同僚との会話に「酒・女・博打」以外のキーワードは必要ない。私も、そんな社会の底辺に甘んじているような輩にお堅いことを言う柄でもないので、職場では専ら罪のない馬鹿話に興じている。そんなある日、最近入った同僚(彼のことをアカギと呼ぶ)から、「コガさん、有馬記念に行きませんか」と誘われた。聞けば、アリマキネンとは一年を締め括る盛大な競馬で、アカギはその指定席が当たったのだそうだ。競馬場に行ったことがないので、写真を撮るには面白そうだと快諾した。それで話が済んでいれば、何の問題もない休日になる筈だった。そこに、もう一人の同僚が登場する。
彼は、28にしてパチンコや競馬で四方八方から借金をしている根っからのギャンブラーで、ここでは彼のことをカイジと呼ぶ。そのカイジくんが、「コガさん、どーせなら賭けませんか」と、珍しく話に絡んできた。私は、競馬のことはまったく分からないし、39年間生きてきて、種々の理由から自分は賭け事に向かないとの自己判断を下しているので、即座に断った。だが、郵便局の夜は長かった。私はこのカイジやアカギたちと、都合14時間共に過ごさねばならない。案の定、その日仕事が明ける頃には、私がカイジに乗り買いする、ということで、すっかり話はついてしまった。
後の証拠のために、カイジが言ったことを、覚えている範囲でここに正確に記しておく。
「コガさん、ボクは馬に興味はないんです。オッズしかみないんですよ。だからオッズが出揃う出走直前にネットで買います。今年のアリマはガチガチです。自分は○万円買いますが、枠連というやつです。1万円ずつ『○-○』と『○-○』を買います。これは本命です。ただ最悪本命を外したときのために、保険で『○-○』と『○-○』を1万円ずつ買っておきます。こうすれば、ほぼゼロはないし、最悪本命を外しても○千円バック、うまくいけば○○万円の勝ちです。」
ギャンブラーは、賭け事になると妙に説得力のある言葉を吐く。賭け事とは、非論理的な精神の跳躍でしかなく、そんな道などあろうはずもない断崖絶壁で、論理という筋道が、さも頼もしく見えてしまうから不思議だ。私には本命がどの馬かも、枠連が何かも分からなかったが、カイジの「保険を打つ」という堅実な(!)考え方に感心し始めていた。カイジはさらに続けた。
「無理にとは言いませんが、コガさんがもし○万円出してくれれば、全部で○○万円の大勝負ができます。そうすれば、さらに保険をかけれますし、当然上がりもでかいです。それにもしコガさんが乗るんでしたら、別に自分のカネから○万円出して『○-○』を買っておきます。これは万一レースが荒れたとき、コガさんの賭金がゼロにならないための保険です。もちろん当たったときは取り半でいいです。」
私に、この話を断る理由は、この時点ですでになかった。日頃お金の管理はカミさんにお任せなのだが、この時偶然、airbnbで稼いだ金が手元にあった。もちろん、事前にカミさんに話せば、賭け事全般に生理的拒否反応を示すカミさんのことだ、OKとは言うまい。だが勝てば、事後承諾でも問題ない。私が当てた○○万円を見て、まさかJRAに金を返してこいとは言わないだろう。
カイジの人となりは、毎日一緒に仕事をしている自分がよく知っている。ギャンブラーだが、仕事は確かな奴だ。最悪俺の金をのむような奴じゃない。それにギャンブラーでありながら、「保険をかける」という考え方が気に入った。上ばかり見てる奴は足下の小さな石ころに躓く。転ぶ怖さを知る私のような大人は、保険も掛けずに飛びはしないものだ。それに、最悪ゼロはないと彼も言った。何度反芻してみても、カイジの計画に破綻は見受けられなかった。
私は乗った。結局、つまるところ、金の誘惑に負けたのだった。
<つづく>
私は乗った。結局、つまるところ、金の誘惑に負けたのだった。
<つづく>
トーキョースタイル
by whitehead on 2012年12月21日金曜日
月曜日、夕方6時。「今日も元気に郵便体操をいたしましょう!」の声が職場にこだますると、郵便課長以下皆で一斉に体操を始める。この7年間、毎日繰り返してきた郵便局の始業風景だ。ここから14時間ほど仕事して、朝の8時に解放。爽快な娑婆の空気を煙草の煙で汚しながらチャリンコで家に帰る。夜中、7ヶ月の息子が立ったとカミさんから写メールが送られてきたので、いつもより急いで帰った。
月曜に送ったデータが恵文社のイベントページに反映されていた。コレとコレ。ちなみに本のセレクトと文章はカミさん。私は写真のみ。ウチのお店は、自分でも信じられないが、女性がメインの顧客のオシャレ古本屋さんなのである。
水曜日は郵便局に行く前に小竹向原でairbnbの撮影が一件。夕方から郵便局で仕事をして、明けの木曜日も大塚で撮影。こうして書くとヤッツケ仕事のようだが、私はこのairbnbの撮影の仕事を(今のところ)楽しんでいる。他人の家に上がり込んで部屋を撮影するというのは、なかなか緊張する仕事だ。そして緊張感のある撮影を適度にこなすことは、写真の腕やカンを錆び付かせないのに役立つ。この仕事を始めて一年になるが、おそらく都築響一氏の『TOKYO STYLE』一冊分くらいの部屋を撮ったのではないか。
リマインダーを見ると年内のスケジュールは埋まっているので、2012年もこんな感じで過ぎていくのだろう。写真は昨日1000円ヘアーカットで散髪してるとき撮ったもの。これから息子を風呂に入れて、また郵便局。
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月曜に送ったデータが恵文社のイベントページに反映されていた。コレとコレ。ちなみに本のセレクトと文章はカミさん。私は写真のみ。ウチのお店は、自分でも信じられないが、女性がメインの顧客のオシャレ古本屋さんなのである。
水曜日は郵便局に行く前に小竹向原でairbnbの撮影が一件。夕方から郵便局で仕事をして、明けの木曜日も大塚で撮影。こうして書くとヤッツケ仕事のようだが、私はこのairbnbの撮影の仕事を(今のところ)楽しんでいる。他人の家に上がり込んで部屋を撮影するというのは、なかなか緊張する仕事だ。そして緊張感のある撮影を適度にこなすことは、写真の腕やカンを錆び付かせないのに役立つ。この仕事を始めて一年になるが、おそらく都築響一氏の『TOKYO STYLE』一冊分くらいの部屋を撮ったのではないか。
リマインダーを見ると年内のスケジュールは埋まっているので、2012年もこんな感じで過ぎていくのだろう。写真は昨日1000円ヘアーカットで散髪してるとき撮ったもの。これから息子を風呂に入れて、また郵便局。
墓場シフト
by whitehead on 2012年12月17日月曜日
先週の金曜は夕方から郵便局。仕事が溜まりきっていたのでMacbook Proを持参。スタバでマックならぬ〒局でマック。私の勤務帯(夕方6時から朝8時)のことを英語でGraveyard Shift(墓場シフト)というが、実際人がいない真夜中の郵便局は墓場のように静かで原稿書きが捗る。お陰でほぼ書き上げることができた。家に帰って既に〆切が過ぎている原稿を古書通信社に送る。
家に帰ると古書通信の最新号(12月号)が机の上に置いてある。今月号の股旅堂さんの写真は結構気に入っていて、コーヒーで一服しながらしばし閲覧。その後息子の相手をしたり細かい仕事を片付けたりしている内にあっという間に土曜日が終わってしまった。息子を風呂に入れ、できれば溜まったフィルムの現像を夜中やりたかったが、一週間の疲れであえなく轟沈。朝まで爆睡する。
日曜日は朝から近所のカフェへ行く。この店の什器がいい感じの古道具で、カミさんから書影の撮影を頼まれたからだ。私の本業(本業でも副業でもどっちでもいいが)は古本屋で、毎年年末の京都の恵文社の古本市に誘われている。そのイベントのブログで、ウチのお店がおすすめする古本を写真付きで何点か紹介しなければならない。古本の仕事はほぼカミさんに任せっきりで、店主である私の仕事は本の撮影くらい。ありがたいことだ。その後いつものごとくairbnbの撮影へ。今日は中目黒のお宅訪問だった。帰りに目黒のラーメン二郎に寄って小ラーメン。ちなみに私のロットでは自分が一番に完食した。
選挙は行くつもりだったがすっかり忘れていた。今回投票率は戦後最低らしいが、私のように週末も仕事に追われ、行けなかった人も多いのではないか。
土日仕事を休めないワーキング・プア(私)のためにネット投票は実現してもらいたい。
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家に帰ると古書通信の最新号(12月号)が机の上に置いてある。今月号の股旅堂さんの写真は結構気に入っていて、コーヒーで一服しながらしばし閲覧。その後息子の相手をしたり細かい仕事を片付けたりしている内にあっという間に土曜日が終わってしまった。息子を風呂に入れ、できれば溜まったフィルムの現像を夜中やりたかったが、一週間の疲れであえなく轟沈。朝まで爆睡する。
日曜日は朝から近所のカフェへ行く。この店の什器がいい感じの古道具で、カミさんから書影の撮影を頼まれたからだ。私の本業(本業でも副業でもどっちでもいいが)は古本屋で、毎年年末の京都の恵文社の古本市に誘われている。そのイベントのブログで、ウチのお店がおすすめする古本を写真付きで何点か紹介しなければならない。古本の仕事はほぼカミさんに任せっきりで、店主である私の仕事は本の撮影くらい。ありがたいことだ。その後いつものごとくairbnbの撮影へ。今日は中目黒のお宅訪問だった。帰りに目黒のラーメン二郎に寄って小ラーメン。ちなみに私のロットでは自分が一番に完食した。
選挙は行くつもりだったがすっかり忘れていた。今回投票率は戦後最低らしいが、私のように週末も仕事に追われ、行けなかった人も多いのではないか。
土日仕事を休めないワーキング・プア(私)のためにネット投票は実現してもらいたい。
ハッピーアワー
by whitehead on 2012年12月14日金曜日
水曜日は郵便局に行く前にairbnbの撮影が渋谷で一件。普通にオシャレなデザイナーズ・マンション。今回はこれまでで最短の40分弱で撮り終えた。撮影後の一服は美味い。
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そういえば火曜日に撮ったairbnbの写真がアップされていた。
もうこの仕事を始めて1年。いろんなお宅を拝見してもはや渡部篤志の心境。家に伺い、とにかく褒めちぎって、クールに撮影して家に帰る。撮影後、見慣れた狭い我が家で、7ヶ月の息子を肴に手酌で酒を飲みながらカミさんに一言「お金ってある所にはあるんだね」。しばらく寝て夕方から郵便局へ・・・。
軽く15時間ほど郵便局で仕事して、朝8時に家に直帰する。カメラは麻薬のようなもので、撮影中は全身の細胞が覚醒して疲れをまったく感じないが、家に帰ると全身が重く思考も鈍い感じだ。しかし今日(木曜日)は午後から別件の撮影の打ち合わせがある。夕方から一路シンジュクへ。
新宿の馴染みのアイリッシュ・パブで、ノイズ・ミュージシャンのDave Skipperさんと会う。Daveさんは東京在住のイギリス人ノイズ・アーティストで、今東京で一番面白いと個人的に思っているノイズ・イベント「Heavier Than Jupiter (木星より重い)」の主催者だ。今年の春、初めてこのイベントに行き、写真を撮ってFacebookにアップしたら、Daveさんからコンタクトがあり、第三回から正式に撮影してほしいとオファーがあった。はっきり言って超マイナーな音楽ジャンルだが、私の好きな音楽(非・音楽というべきか)なので二つ返事でOKした。airbnbのような仕事で写真をマネタイズすることも大事だが、こういう文化的な仕事に携われるのも、写真をやってて良かったと思うことの一つだ。ノイズ音楽を世に広めるため、精一杯良い写真を撮るとDaveさんに約束する。
帰りの電車の中で、スマホをぼんやり見つめるサラリーマンの群れを横目に見ながら、次の新しい写真のテーマについて考える。ここ数ヶ月間、ちょっとしたきっかけから芽生え、来年からの撮影開始に向け、何度も頭の中で転がしているアイデアだ。最初はバラバラの要素であったものが、だんだんと結びついて形になってきた。Daveさんといい感じに酒を飲んだので家に帰ると爆睡してしまった。
軽く15時間ほど郵便局で仕事して、朝8時に家に直帰する。カメラは麻薬のようなもので、撮影中は全身の細胞が覚醒して疲れをまったく感じないが、家に帰ると全身が重く思考も鈍い感じだ。しかし今日(木曜日)は午後から別件の撮影の打ち合わせがある。夕方から一路シンジュクへ。
新宿の馴染みのアイリッシュ・パブで、ノイズ・ミュージシャンのDave Skipperさんと会う。Daveさんは東京在住のイギリス人ノイズ・アーティストで、今東京で一番面白いと個人的に思っているノイズ・イベント「Heavier Than Jupiter (木星より重い)」の主催者だ。今年の春、初めてこのイベントに行き、写真を撮ってFacebookにアップしたら、Daveさんからコンタクトがあり、第三回から正式に撮影してほしいとオファーがあった。はっきり言って超マイナーな音楽ジャンルだが、私の好きな音楽(非・音楽というべきか)なので二つ返事でOKした。airbnbのような仕事で写真をマネタイズすることも大事だが、こういう文化的な仕事に携われるのも、写真をやってて良かったと思うことの一つだ。ノイズ音楽を世に広めるため、精一杯良い写真を撮るとDaveさんに約束する。
帰りの電車の中で、スマホをぼんやり見つめるサラリーマンの群れを横目に見ながら、次の新しい写真のテーマについて考える。ここ数ヶ月間、ちょっとしたきっかけから芽生え、来年からの撮影開始に向け、何度も頭の中で転がしているアイデアだ。最初はバラバラの要素であったものが、だんだんと結びついて形になってきた。Daveさんといい感じに酒を飲んだので家に帰ると爆睡してしまった。
Strong men also cry.
by whitehead on 2012年12月12日水曜日
年末で私の副業である郵便局が忙しい。私は郵便局では(郵便局でも、というべきか)、よく休み、休憩時間も人一倍多くとる不良期間雇用社員NO.1であるが、そんなズボラな私ですら忙しさを感じるほどの忙しさだ。
8時15分にいつものように郵便局の仕事を終え、家で少し休んだあとairbnbの撮影で渋谷区某所へ。最近毎日のようにairbnbの撮影依頼がくるが、少しづつ日本でも浸透してきているのだろうか。家庭持ち賃貸住み高卒の古本屋の親父(兼写真家、兼郵便局員)な私にすれば、いい小遣い稼ぎになって嬉しい限りだ。
今のところairbnbは、お金持ちのバイリンガルな日本人、もしくは日本在住の外国人の撮影依頼が多い。最初の頃は豪華な家に伺うたびに感動したり落胆したり(自分と比較して)していたが、最近は家賃80万の高級マンションに伺っても何とも思わなくなった。慣れである。撮影はだいたい1時間。今日も自分なりにいい仕事をさせてもらった。ただ途中、郵便局の疲れか、どんなにファインダーを覗いても何も良いと感じないプチ・ゲシュタルト崩壊が起きてしまった。
家に帰ってパソコンを開くと、日本古書通信から連載の〆切の催促が目に入る。〆切が近づくとメールボックスを開くのが心底恐ろしい。連載をはじめて2年になるがこればかりは慣れない。
もろもろ片付けてから、親友のろでぃ氏が写真を撮っている田中龍作ジャーナルを見る。小沢一郎、良い写真だ。落日の昭和の大物政治家の悲しみがよく出ている。政治は詳しくないから小沢一郎が今回どうなのか知らない。だが離縁された妻から落選工作を受ける中での選挙はさぞ辛いことだろう。ろでぃ氏が撮った写真で小沢一郎の目から涙が垂れているが、もしかしたらふと家族のことを思い出したのかもしれない。男にとって、家族がゴタゴタしているほど辛いことはないものだ。自分は小沢一郎より幸せだ。
私は写真家は貧たりとはいえ芸術家だと思っている。そして芸術家は、私が尊敬する芸術家がそうであるように、最も高貴な職業だと思っている(たとえ貧しくても)。だから私には、有名人を撮りたいという欲望はほとんどなかったりする。政治家でも芸能人でもいいが、有名人を撮る、すると彼らが「主」で写真家が「従」という、その力関係が写真家至上主義な私には耐えられないのだ。世間の評価ではなく、何を撮る・撮らないは、写真家が自らの判断で決めるべきことだ。有名人であっても撮らないときは撮らないし、たとえ無名の一市民であっても撮りたいときは土下座してでも撮る。
だがろでぃ氏の小沢一郎の写真を見て、「被写体の強さ」というものに気がついた。写真の良さとは、撮影者の技術や感性が半分、残りの半分はどうしても被写体のものだ(その奥ゆかしさが写真のいい所)。そして被写体が良ければ、この両者が相乗効果を生んでプラス以上の作品を作り出す。小沢一郎がいい政治家かどうかは知らない。だが被写体としては間違いなく一級品だ。
さて世間で水曜日と言われている今日は、午前中にairbnbの撮影が入っている。それまでに溜まった仕事を片付けたり着手したりしないといけない。そして夕方からは郵便局の仕事だ。もう時間や曜日の感覚がメチャクチャである。そんなワーキングプアな生活も6年目。合掌。
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8時15分にいつものように郵便局の仕事を終え、家で少し休んだあとairbnbの撮影で渋谷区某所へ。最近毎日のようにairbnbの撮影依頼がくるが、少しづつ日本でも浸透してきているのだろうか。家庭持ち賃貸住み高卒の古本屋の親父(兼写真家、兼郵便局員)な私にすれば、いい小遣い稼ぎになって嬉しい限りだ。
今のところairbnbは、お金持ちのバイリンガルな日本人、もしくは日本在住の外国人の撮影依頼が多い。最初の頃は豪華な家に伺うたびに感動したり落胆したり(自分と比較して)していたが、最近は家賃80万の高級マンションに伺っても何とも思わなくなった。慣れである。撮影はだいたい1時間。今日も自分なりにいい仕事をさせてもらった。ただ途中、郵便局の疲れか、どんなにファインダーを覗いても何も良いと感じないプチ・ゲシュタルト崩壊が起きてしまった。
家に帰ってパソコンを開くと、日本古書通信から連載の〆切の催促が目に入る。〆切が近づくとメールボックスを開くのが心底恐ろしい。連載をはじめて2年になるがこればかりは慣れない。
もろもろ片付けてから、親友のろでぃ氏が写真を撮っている田中龍作ジャーナルを見る。小沢一郎、良い写真だ。落日の昭和の大物政治家の悲しみがよく出ている。政治は詳しくないから小沢一郎が今回どうなのか知らない。だが離縁された妻から落選工作を受ける中での選挙はさぞ辛いことだろう。ろでぃ氏が撮った写真で小沢一郎の目から涙が垂れているが、もしかしたらふと家族のことを思い出したのかもしれない。男にとって、家族がゴタゴタしているほど辛いことはないものだ。自分は小沢一郎より幸せだ。
私は写真家は貧たりとはいえ芸術家だと思っている。そして芸術家は、私が尊敬する芸術家がそうであるように、最も高貴な職業だと思っている(たとえ貧しくても)。だから私には、有名人を撮りたいという欲望はほとんどなかったりする。政治家でも芸能人でもいいが、有名人を撮る、すると彼らが「主」で写真家が「従」という、その力関係が写真家至上主義な私には耐えられないのだ。世間の評価ではなく、何を撮る・撮らないは、写真家が自らの判断で決めるべきことだ。有名人であっても撮らないときは撮らないし、たとえ無名の一市民であっても撮りたいときは土下座してでも撮る。
だがろでぃ氏の小沢一郎の写真を見て、「被写体の強さ」というものに気がついた。写真の良さとは、撮影者の技術や感性が半分、残りの半分はどうしても被写体のものだ(その奥ゆかしさが写真のいい所)。そして被写体が良ければ、この両者が相乗効果を生んでプラス以上の作品を作り出す。小沢一郎がいい政治家かどうかは知らない。だが被写体としては間違いなく一級品だ。
さて世間で水曜日と言われている今日は、午前中にairbnbの撮影が入っている。それまでに溜まった仕事を片付けたり着手したりしないといけない。そして夕方からは郵便局の仕事だ。もう時間や曜日の感覚がメチャクチャである。そんなワーキングプアな生活も6年目。合掌。
ハードルを下げて再出発
by whitehead on 2012年12月10日月曜日
ツイッターはお店(古本屋)の公式アカウントだから写真のこと書きづらいし、フェースブックを日記代わりに使うのもなんだし、気軽に書くにはブログが一番ということで、旧「生涯一アマチュア写真家」をリニューアルして写真の備忘録として使うことにする。毎日シャシンのことは彼是考えていて、ほんとは酒でも飲みながらぶちまけるのが一番だけど、そんなカネも時間も友人もない身だから仕方がない。
土日は久しぶりにプリントをやった。私が使うプリンターはエプソンのPX-5002という分不相応に高価なもので、これはA2サイズまで印刷できる。まともに買うと十数万する代物だが、写真仲間のJon Ellis氏から格安で譲り受けた。Windowsパソコンを使っていたときは、ドライバのせいか思うような色が出ず、ほとんど置物と化していたものだ。だが、先日6年ぶりにパソコンを新調して、MacBook Proの最新のものを(ローンで)買ったのだが、これでPX-5002を使うと恐ろしいほど捗る。使った紙はフランス製のバライタ・インクジェット用紙のCanson INFINITYというもの。詳しく言うと、5D Mark 2で撮ったものを、アドビのLightroomで少しいじって、RAWでそのまま出力。紙の選択が当たったせいかもしれないが、思った以上の仕上がりで感動して眺めること数時間。当面写真展をやる予定はないが、カラーでやるなら、いつも頭を悩ますプリント問題はこれで解決である。
何をプリントしたかというと、今年の夏頃、個人的に好きなBastard Noiseというアメリカのバンドの日本ツアーがあって、勝手に彼らのライブを撮って、これまた勝手にフェースブックにアップしていたら、先日アーティスト本人から連絡があり、写真を欲しいからプリントして送ってくれないか、と頼まれたのだ。お金はいくらかかってもいい、と言われたが、個人的にリスペクトしてるバンドだったので、プリント代と送料をくれればいい、と恰好つけてしまった。とくに後悔はしていない。今日EMSで送るつもりだが、本人が喜んでくれて、アシが出なければそれでいいのだ。
今週もいろいろやることが多い。写真家契約をしているairbnbの撮影が渋谷で2件あるし、写真コラムの連載をしている日本古書通信も年末進行で〆切が早い。そして何より、新しいWEB連載を今週中に始めなければならない。これは、ここ数年私がテーマで撮っていて、古書通信でも連載になっている古書店シリーズが、別の出版社のWEB連載として始まるものだ。ほんとは11月に始まる予定だったが、この連載に付随してフェースブックのファンページを立ち上げることになり、これの毎日の更新を義務づけられ、どういう風にしようか彼是考えているうちに日が過ぎてしまった。そこそこ素材も集まったし、もはや考えている余裕はない。やるだけである。重要な福島ノートの更新もある。子供と遊んでる場合じゃないのよね・・・。
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土日は久しぶりにプリントをやった。私が使うプリンターはエプソンのPX-5002という分不相応に高価なもので、これはA2サイズまで印刷できる。まともに買うと十数万する代物だが、写真仲間のJon Ellis氏から格安で譲り受けた。Windowsパソコンを使っていたときは、ドライバのせいか思うような色が出ず、ほとんど置物と化していたものだ。だが、先日6年ぶりにパソコンを新調して、MacBook Proの最新のものを(ローンで)買ったのだが、これでPX-5002を使うと恐ろしいほど捗る。使った紙はフランス製のバライタ・インクジェット用紙のCanson INFINITYというもの。詳しく言うと、5D Mark 2で撮ったものを、アドビのLightroomで少しいじって、RAWでそのまま出力。紙の選択が当たったせいかもしれないが、思った以上の仕上がりで感動して眺めること数時間。当面写真展をやる予定はないが、カラーでやるなら、いつも頭を悩ますプリント問題はこれで解決である。
何をプリントしたかというと、今年の夏頃、個人的に好きなBastard Noiseというアメリカのバンドの日本ツアーがあって、勝手に彼らのライブを撮って、これまた勝手にフェースブックにアップしていたら、先日アーティスト本人から連絡があり、写真を欲しいからプリントして送ってくれないか、と頼まれたのだ。お金はいくらかかってもいい、と言われたが、個人的にリスペクトしてるバンドだったので、プリント代と送料をくれればいい、と恰好つけてしまった。とくに後悔はしていない。今日EMSで送るつもりだが、本人が喜んでくれて、アシが出なければそれでいいのだ。
今週もいろいろやることが多い。写真家契約をしているairbnbの撮影が渋谷で2件あるし、写真コラムの連載をしている日本古書通信も年末進行で〆切が早い。そして何より、新しいWEB連載を今週中に始めなければならない。これは、ここ数年私がテーマで撮っていて、古書通信でも連載になっている古書店シリーズが、別の出版社のWEB連載として始まるものだ。ほんとは11月に始まる予定だったが、この連載に付随してフェースブックのファンページを立ち上げることになり、これの毎日の更新を義務づけられ、どういう風にしようか彼是考えているうちに日が過ぎてしまった。そこそこ素材も集まったし、もはや考えている余裕はない。やるだけである。重要な福島ノートの更新もある。子供と遊んでる場合じゃないのよね・・・。
写真家って、なによ。
by whitehead on 2012年3月5日月曜日私の本業は古本屋だが、Facebookでは写真家を名乗っている。
地味な雑誌とはいえ写真の連載を持ってるし、これから写真の仕事も増やしていきたいので、そうしている。写真家を名乗るほどの者なら誰でもそうだが、自分の写真の腕にもある信頼を持っている。
気がつけば、私の周りにも写真家を名乗る者は多い。その内実は、写真でメシを喰っている、喰ってない、キャリアが長い、短いなど、人それぞれ。そしてそれが悪いことだとは思わない。
医者や弁護士と違い、写真家を名乗るのに資格は必要ないのだ。作家や芸人と同じで、誰でも思い立てば写真家になれる。だから腕に自信があって、写真で身を立てたい、写真で世に出たい人は、恐れずに写真家を名乗るべきだ。ただ、世間が彼/彼女を写真家と認めなければ、職業としての写真家は成り立たないだけだ。
つまり、自分で写真家と名乗ることに何の意味もない。
それはただの始まりでしかない。
写真家を名乗ったその日から、彼/彼女は全生涯を賭けて自分が写真家であることを世間に認めさせる-その"事業"に成功した者を、私たちは写真家と呼ぶのだから。
その意味で、誰でも「写真家」になれるし、誰でも「写真家」にはなれない。資格がないからこそ、簡単でもあり、この上なく難しいともいえる。結局、とどのつまりは、「自分がどんな写真家として世に認められたいか」これに尽きると思う。
写真家になる道は人それぞれだ。ただし「人それぞれ」という言葉の持つ重みを知るのは、ごくわずかな写真家だけなのだ。
Thomas Orandのこと。
by whitehead on 2011年5月9日月曜日先日親友のThomas Orand(以下トマさん)の家に行って、いつものようにプリントを見せてもらった。同じ写真を撮る者として、ちょっと悔しいことに、そのとき見たプリントの衝撃がまだ収まらない。このモヤモヤをすっきりさせるためには、トマさんの写真について書くほかなさそうだ。
トマさんの写真をはじめて見たのは4年前、フリッカーの中でだ。今のトマさんは、ハッセルブラッド+モノクロ+バライタという不動のスタイルを確立している。でもその頃のトマさんはスタイルを模索していた。デジカメ、トイカメラ、35mm、中判と、いろんな機材を通じて彼の荒削りな才能がスパークしていた。この頃のトマさんの写真を見れて、私は幸せに思っている。だがトマさんの写真の速度は速かった。あっという間に彼は、自分のスタイル-自分にしか撮れない写真の型を発見した。彼は自家暗室を作り、モノクロの、正方形の写真しか撮らなくなった。彼はもう、写真を通じて「一つのこと」しか言わなくなった。その頃だろうか、彼はフリッカーにアップしていた写真をすべて削除した。私はそれを密かに嘆いたが、自分のスタイルを掴んだ彼にとって、過去の模索時代の写真は見るに耐えなかったのだろう。
トマさんの写真の現在は、インターネットの中にはない。彼が申し訳程度にやっているフリッカーも、たまにしかアップしないブログも、彼が家に行くたびに見せてくれる膨大なプリントの量に比べれば何でもない。彼は一人で写真を撮ることを好み、飲み会や友達と会うときには、愛用のハッセルブラッドは絶対に持ってこない。彼は細やかな気配りのできる、人付き合いのいい愛すべき友人だが、彼の撮影に同行を許されるのは孤独だけだ。こと写真に関する限り、トマさんほどのスーパー・エゴイストを私は他に知らない。彼は孤独を愛し、暗室で嗅ぐ薬品の香りを愛し、バライタでしか浮かび上がってこない階調を愛す。インターネットの偽りの交際よりは。
トマさんの写真に写っているものは、平凡という言葉すら無用なほどに当たり前なものばかりだ。そんな彼の写真を見るたびに、「何という自信だ」と密かに舌を巻く。見る者の眼に対する信頼、写真に対する絶対の自信なくして、かくまで平々凡々たるものを撮ることはできないだろう。それはあたかも、安易な記号や、言葉をそこに求めようとすることを絶対に拒否するかのようだ。トマさんの写真は僕らに、他の何ものでもない「写真を見る」ことを要求する。写真を、写真として見、写真として感じ、さらには写真の中に入ってくることを求める。気がつけば、ロダンの彫刻や、セザンヌの絵画の前に立つが如く、言葉を忘れ、ひたすら凝視する自分を発見する。そしてトマさんの写真を見たあとはいつも、写真という不思議なものの実体が、少しだけ「見えた」気がするのだ。
写真から受ける感じは人それぞれだろう。身近な友人の作品について、あれこれ書く失礼をしたくはなかったが、私がトマさんの写真から受ける印象を、備忘のためにここに記しておく。
Blog : THOMAS ORAND
Portfolio : Thomas Orand Photographs
Flickrよさようなら
by whitehead on 2009年9月9日水曜日森山 そう、すべての生活をひっくるめて根こそぎダメだと思うよ。
『写真よさようなら』巻末の対談より
最近、とても才能のあるアマチュア写真家が、何人かフリッカーを止めた。また「フリッカーをやめたい」という切実な相談を、何人かの、これまた才能のあるアマ写真家から受けた。
私は別に薦めもしないし、引きとめもしない。ていうか、「たかが写真共有サイトじゃない。何マジになってんの?」と、心の中で思ったりもする。
だが彼らがみな、写真を始めて2・3年のキャリアであると知って、ここに重要な問題があることに気付いた。
そこで写真を始めて数年の、フリッカーに夢中になっているアマチュア写真家のみなさんに、私は言いたい。
写真をなめるなよ、と。
写真というのは、本当に、面白いんです。大の大人を、身を持ち崩すほどに夢中にさせる何かが、写真にはあるんです。
私は写真を始めて10数年になるが、写真を始めて2・3年の初心者は、この写真が持つ”怖さ”を知らない、と思う。
いくつか例を紹介しよう。
古くは、明治期に写真界のパトロンとなり、自身も写真家として、我が国の写真界の発展の礎を築いた鹿嶋清兵衛。彼は大阪の有数の酒問屋の御曹司であったが、あまりにお金を写真に注ぎ込んだため、のちに家から絶縁され、女と野垂れ死にをした。
あるいは篠山紀信、立木義浩、森山大道らを発掘し世に送り出した、伝説の『カメラ毎日』編集長・山岸章二。彼は若くして自殺している。
自殺といえば、「写真と寝た女」ダイアン・アーバスが有名だ。彼女の写真は、そのオマージュがキューブリックの映画(『シャイニング』)に使われたりして有名だが、自殺する自分の姿を写真に撮ったという噂がいまだにある。
そして写真は、日本が世界に誇る数少ない芸術のひとつだが、日本の写真界も死屍累々である。
「彼は世界に体を貸し与えている」<多木浩二>とか、「彼は風景に火炎ビンを投げつけている」<荒木経惟>と言わしめた写真家・中平卓馬。彼に関しては以前文章を書いたが、彼は自分の写真を燃やしたその日の晩に、酒を飲みすぎて昏倒し、逆行性健忘症になった。
また私が密かに、日本で最も優れた写真家だと思っている深瀬昌久。彼もまた、まるでそうなることが不可避であるかのようなキャリアを残し、ある晩行きつけの酒場で転倒し、頭部に重症を負った。ちなみに彼は、今なお多摩の病院で療養中である。
これらの例は極端だとしても、なぜ森山大道が、キャリアの絶頂で『写真よさようなら』という作品を出さずにいられなかったか、考えてみるのも無駄ではないだろう。森山は、『写真よさようなら』を出した後プチ鬱状態になり、数年間写真が撮れなかった。
写真は、おもしろい。面白すぎて、ときに恐ろしいものだと、私は思っている。だから、あまりに短期間に、写真の核心部分に到達してしまうと、精神に異常を来す危険がある。上に例を挙げた人々は、皆、写真の核心に触れた人たちなのだ。いわば、写真の殉教者たちだ。写真の核心に触れ、なお旺盛な創作意欲を失わなかった荒木経惟は、だから天才なのである。
この写真の核心部分は、誰にでも到達できるものではない。これを垣間見ることができるのは、写真家の”資質”を持つ者だけだ。言っておくが、この”資質”は、必ずしも写真家になるために必要ではない。逆に、写真の核心から遠ければ遠いほど、その者は幸せなアマチュア写真ライフを送ることができるだろう。無論私はそんな資質を持ち合わせていないが、この資質を持つアマチュア写真家を、私はフリッカーで何人か知っている。Sean Wood(motionid)。彼はそのなかの一人だった。そして彼はフリッカーを止めた。
私は街の中にいた。風景の中ではなく、現実の中にいた。現実はカメラの中にしまいこんでおけ。カメラからフィルムを取り出してはいけない。でてくるのは死んだ風景なのだ。写真は死んだ風景だけだ。死景なのだ。 『舞踏する写真機』 荒木経惟より
フリッカー。便利なものである。
昨日写真を始めたばかりの人でも、写真をアップすれば、世界中の人が見てくれる可能性がある。良い写真なら、たくさんのコメントがつく。世界中の人から賞賛される快感。メールボックスにはたくさんのコンタクトのメールが来る。グループの参加申請が来る。時には、海外の出版社などから写真掲載の申し込みが来る。そしてOFF会の誘い・・・。
フリッカーは、写真という中毒性の高い代物に、これまた中毒性のあるSNS(Social Network Service)が合体したものである。ある意味で、究極のSNSだと言って良い。少し前に、「ミクシィ中毒」「ミクシィ疲れ」という言葉が流行ったように、SNS自体が、下手をすると生活を破壊しかねないほどの中毒性を持っている。そして上で詳しく述べたように、写真は、SNSなんぞよりさらに純度の高い「大人の麻薬」なのだ。
私は個人的に、写真の怖さを知らない素人が、いきなりフリッカーをやるのは危険だと思っている。もし彼/彼女が写真家の”資質”を持つ才能豊かな者なら、なおさらその危険性は増すだろう。
良識ある皆様アマチュア写真家におかれましては、適度に距離を置いて、無理のないフリッカー・ライフを送られんことを。
さて、新しい写真をアップして、コメントの返事を書くとするか・・・
写真集を読む 「THE AMERICANS」 ROBERT FRANK
by whitehead on 2009年9月7日月曜日私も時々雑誌などで、「本屋がお勧めする一冊!」的な文章を書くが、いい加減なものだと自分で思う。実際紹介した本で、それまで読んだことのない本もあったし、「私が最も影響を受けた一冊」といいながら、最後にその本のページを開いたのは10年前だったりする。ある意味で本屋の仕事とは、知らない本をあたかも知っているように、よく知っている本を初めて読むかのように人に伝えることなのだが、この「THE AMERICANS」は違う。私が写真を始めた頃から今日に至るまで、いつも座右にあって、繰り返しインスピレーションを与えられた写真集なのだ。
これはスイス人の写真家ロバート・フランクが、1955年から56年にかけて、アメリカ全土を旅して撮った写真を収めたものだ。題はそのものずばり「アメリカ人」。ごまかしもハッタリもない、恐ろしいまでに大胆な題名である。どだい、あの広大な土地に住み、世界一多様な生態を持つアメリカ人を、一冊の写真集に集約することなど不可能だ、と誰しも思う。確かに、不可能である。だがこの写真集の凄さは、その不可能に、今なお誰も超えられない、一つの答えを提示した点にある。
ロバート・フランクのアメリカ人は、我々がテレビや雑誌で眼にするアメリカ人ではない。彼ら自身ですら、見落としてしまうほど真実な姿が、実に丁寧に写真の枠で切り取られている。熱狂や興奮が求める視線とは逆の方向に向かって、彼のカメラは、静かに、そして孤独に、アメリカ人の底流の方へと降りていく。そして彼がシャッターを押した瞬間は、アメリカ人が見せたい彼らの姿でも、私たちが見たいアメリカ人でもない、あるがままなアメリカ人の姿をストレートに写し出す。一見何気ない写真の羅列のようなこの写真集だが、あるがままな姿を捉えるという点で、驚くほど多彩なのだ。しかもそれらの一枚一枚が、感動的なまでに”写真”なのである。ラルティーグやアッジェの時代から、写真は身近な真実を写す道具として進化してきた。1950~60年といえば、ライカによって35mmの小型カメラが普及し始めた頃だ。ロバート・フランクも、バルナック・ライカと35mm、50mm、90mmの3本のレンズで、この写真集を撮影している。
小型の35mmカメラの普及によって、写真の撮影に、大掛かりなセットも、被写体の演技も不要となった。被写体が気付くより先に、あるいは気付かれないままに、撮影することが可能になったのだ。映画とも絵画とも違う、身近な真実を記録する写真独自の表現が、こうして完全に可能になったのである。
ロバート・フランクの写真は、この写真独自の表現の、ひとつの極致を現したものだ。それはフィクションではなく、そこに登場する人々も役者などではない。彼らは、現実の生活のなかで泣き、笑い、それ以外の時は大抵ボンヤリとした表情を浮かべている、あるがままな「私」や「あなた」である。そんな彼らの偽りない姿を、ロバート・フランクは、最大限の共感と、それと同量の傍観によって、最高度の写真に仕立て上げた。この写真集が、「アメリカ人」という枠を超えて、多くの人々の共感を呼ぶ理由もそこにある。












