2009年9月9日水曜日

Flickrよさようなら

中平 写真がダメになるんだったら、全部ダメだろう。
森山 そう、すべての生活をひっくるめて根こそぎダメだと思うよ。
『写真よさようなら』巻末の対談より

最近、とても才能のあるアマチュア写真家が、何人かフリッカーを止めた。また「フリッカーをやめたい」という切実な相談を、何人かの、これまた才能のあるアマ写真家から受けた。
私は別に薦めもしないし、引きとめもしない。ていうか、「たかが写真共有サイトじゃない。何マジになってんの?」と、心の中で思ったりもする。
だが彼らがみな、写真を始めて2・3年のキャリアであると知って、ここに重要な問題があることに気付いた。

そこで写真を始めて数年の、フリッカーに夢中になっているアマチュア写真家のみなさんに、私は言いたい。

写真をなめるなよ、と。

写真というのは、本当に、面白いんです。大の大人を、身を持ち崩すほどに夢中にさせる何かが、写真にはあるんです。
私は写真を始めて10数年になるが、写真を始めて2・3年の初心者は、この写真が持つ”怖さ”を知らない、と思う。


いくつか例を紹介しよう。
古くは、明治期に写真界のパトロンとなり、自身も写真家として、我が国の写真界の発展の礎を築いた鹿嶋清兵衛。彼は大阪の有数の酒問屋の御曹司であったが、あまりにお金を写真に注ぎ込んだため、のちに家から絶縁され、女と野垂れ死にをした。
あるいは篠山紀信、立木義浩、森山大道らを発掘し世に送り出した、伝説の『カメラ毎日』編集長・山岸章二。彼は若くして自殺している。
自殺といえば、「写真と寝た女」ダイアン・アーバスが有名だ。彼女の写真は、そのオマージュがキューブリックの映画(『シャイニング』)に使われたりして有名だが、自殺する自分の姿を写真に撮ったという噂がいまだにある。

そして写真は、日本が世界に誇る数少ない芸術のひとつだが、日本の写真界も死屍累々である。

「彼は世界に体を貸し与えている」<多木浩二>とか、「彼は風景に火炎ビンを投げつけている」<荒木経惟>と言わしめた写真家・中平卓馬。彼に関しては以前文章を書いたが、彼は自分の写真を燃やしたその日の晩に、酒を飲みすぎて昏倒し、逆行性健忘症になった。
また私が密かに、日本で最も優れた写真家だと思っている深瀬昌久。彼もまた、まるでそうなることが不可避であるかのようなキャリアを残し、ある晩行きつけの酒場で転倒し、頭部に重症を負った。ちなみに彼は、今なお多摩の病院で療養中である。

これらの例は極端だとしても、なぜ森山大道が、キャリアの絶頂で『写真よさようなら』という作品を出さずにいられなかったか、考えてみるのも無駄ではないだろう。森山は、『写真よさようなら』を出した後プチ鬱状態になり、数年間写真が撮れなかった。


写真は、おもしろい。面白すぎて、ときに恐ろしいものだと、私は思っている。だから、あまりに短期間に、写真の核心部分に到達してしまうと、精神に異常を来す危険がある。上に例を挙げた人々は、皆、写真の核心に触れた人たちなのだ。いわば、写真の殉教者たちだ。写真の核心に触れ、なお旺盛な創作意欲を失わなかった荒木経惟は、だから天才なのである。

この写真の核心部分は、誰にでも到達できるものではない。これを垣間見ることができるのは、写真家の”資質”を持つ者だけだ。言っておくが、この”資質”は、必ずしも写真家になるために必要ではない。逆に、写真の核心から遠ければ遠いほど、その者は幸せなアマチュア写真ライフを送ることができるだろう。無論私はそんな資質を持ち合わせていないが、この資質を持つアマチュア写真家を、私はフリッカーで何人か知っている。Sean Wood(motionid)。彼はそのなかの一人だった。そして彼はフリッカーを止めた。

私は街の中にいた。風景の中ではなく、現実の中にいた。現実はカメラの中にしまいこんでおけ。カメラからフィルムを取り出してはいけない。でてくるのは死んだ風景なのだ。写真は死んだ風景だけだ。死景なのだ。  『舞踏する写真機』 荒木経惟より

フリッカー。便利なものである。

昨日写真を始めたばかりの人でも、写真をアップすれば、世界中の人が見てくれる可能性がある。良い写真なら、たくさんのコメントがつく。世界中の人から賞賛される快感。メールボックスにはたくさんのコンタクトのメールが来る。グループの参加申請が来る。時には、海外の出版社などから写真掲載の申し込みが来る。そしてOFF会の誘い・・・。

フリッカーは、写真という中毒性の高い代物に、これまた中毒性のあるSNS(Social Network Service)が合体したものである。ある意味で、究極のSNSだと言って良い。少し前に、「ミクシィ中毒」「ミクシィ疲れ」という言葉が流行ったように、SNS自体が、下手をすると生活を破壊しかねないほどの中毒性を持っている。そして上で詳しく述べたように、写真は、SNSなんぞよりさらに純度の高い「大人の麻薬」なのだ。

私は個人的に、写真の怖さを知らない素人が、いきなりフリッカーをやるのは危険だと思っている。もし彼/彼女が写真家の”資質”を持つ才能豊かな者なら、なおさらその危険性は増すだろう。

良識ある皆様アマチュア写真家におかれましては、適度に距離を置いて、無理のないフリッカー・ライフを送られんことを。

さて、新しい写真をアップして、コメントの返事を書くとするか・・・

Pentax SP / Takumar 50mm f1.4 / Kodak PORTRA 800 [大森、東京]

2009年9月7日月曜日

TOKYO PHOTO 2009 ~写真がこんなに馬鹿高いなんて知らなかったゼ!~

写友の渡部さんから教えられて、『TOKYO PHOTO 2009』に行ってきた。
あまりプロの写真家の写真展に行かない(なぜならつまらないから)私であるが、これは話を聞いて、「行った方がいいかも」と閃いた。入場料1500円というのが気にかかるが、有名・無名のプロの写真家の作品をたくさん見れるのはお得だし、何より、『TOKYO PHOTO 2009』という題が気になった。フリッカーで、東京画というグループをやっている関係上、現在のプロの写真家が、どんな東京写真を撮っているか気になったからだ。

面白かったですよ、確かに。自分的には、1500円の価値は十分ありました。
・・・と、これがただの写真展なら、いろんな写真家の、素晴らしい写真を腹一杯見れて、「あー刺激になったなー」で無事終わるんだけど、実はこの写真展、写真家が開催しているものではない。東京の写真を扱う有名な画廊が、幾つかで協同開催している写真展なのです。だから当然、陳列してある写真はすべて売り物、値札がついている。この値段が・・・馬鹿高い!!!

いつものように、陳列されている写真を眺める私。「お、いいな」と思う写真がある(そんなに多くはなかったが)。値札を見る。「650,000円」。マジで!?また写真を眺める。気に入った写真の前で足を止める。ひとくさり鑑賞したあと、「これは中版以上のカメラを使って、2秒くらいの露光で、固めの印画紙にかなり焼きこんだな」などと想像する。値札を見る。「800,000円」はぁ!?ずっとこの繰り返し。
写真を見て素朴に感動し、値札を見て心臓が凍りつくという(笑
しかもギャラリーのブースごとに、画商らしき人が常駐していて、おそらく商品(写真)に触ったりしないように監視しているのだろうが、これがかなり気になった。画商というものに対する私の偏見からか、何やら彼らの視線が、客の風体を見てその人の財力を値踏みしているように感じられて、落ち着かないのである。もちろんこれは私の偏見ですけどね。ちゃんと写真のことを尋ねたら、皆さん親切に答えてくれましたですよ。
まぁとにかく、写真に対する感動がすっ飛ぶほどに、その値段の高さが印象に残った写真展だった。

家に帰って、私がこの『TOKYO PHOTO 2009』から受けた衝撃が何だったのか、考えた。

私は、前も言ったように、プロの写真家の写真展には滅多に行かない。好きな写真家はたくさんいるが、写真集でじっくり見る方が好きだ。だが、愛すべきアマチュア写真家(私もその一人である)の皆さんの写真展には、フリッカー絡みで頻繁に行く。アマ・写真家の写真展は、往々にしてお酒を飲んだり、雑談するのがメインになりがちだが、私はどちらかと言うと、写真をじっくり見たい方だ。確かに雑談も楽しいけど、そこはやはり「写真展」。「写真を見」て、その人の写真をしっかり目に焼き付けて帰りたいと思う。
彼らアマ・写真家の写真は、当然ながら売り物ではない。売り物であるどころか、ギャラリーのレンタル代、写真のプリント代と、「出」ばかりで実入りがないのが常だ。それでも写真展をやりたいのが、私を含むアマ写真家の悲しき/愛すべき習性なのだが、今回の『TOKYO PHOTO 2009』は、その点で大きく違った。

そこでは、写真は商品であった。それも、椅子からケツが飛び上がるほどの高額な値札が付いていた。写真を売買する画商がいた。そして、おそらくは「客」であるのだろう、写真に熱心に見入る金持ち風の人々がいた。
そこは写真展というより、市場(マーケット)であった。
さながら写真という商品を巡って、大金が飛び交う戦場。残念ながら、アマ写真家の写真展とは熱気が違った。人間、ゼニ・カネが絡むと、こうも興奮するものなのか・・・。
私がこの『TOKYO PHOTO 2009』から感じた拭いがたい不快感/違和感は、どうやらそこら辺からくるらしい。それに比べて、アマチュア写真家諸君の写真展の何と牧歌的なことか・・・。

私が以上のようなことを話すと、同行した友人がこう言った。

「確かに法外な値段だけど、彼らもここまで来るまでに、写真にたくさんのお金を注ぎ込んだのだから」。

確かにそうだ。私の考えがナイーブ過ぎたと悟った。
彼らは、私と違ってプロの写真家である。当然彼らの写真は”商品”であってしかるべきだ。実際陳列されていた写真はどれも、好き嫌いは別に、私の写真なんぞとは一枚に込められているものの量が違った。奇跡的な瞬間を封じ込めた写真、想像もつかないような技術的処理が施された写真、そして、素っ気ない表面の裏側に、何やら難解なコンセプトが張り巡らされた写真・・・。そこには確実に、一枚の写真が商品に化けるだけの、「売れるための努力」が、幾重にも積み重ねられていた。
とはいえ、それが車一台分の金額に匹敵する写真かどうかとなると、正直私には分からない。また一枚の写真に、数十万円をポンと払うお客がどのような人種なのか、私には想像もつかない。事業に成功し、遅ればせな芸術欲に目覚めた老夫婦か。それともお金に不自由しない、芸術カブレの馬鹿息子か、あるいはピカソやゴッホの絵と同じく、投機目的で写真を所有する大企業か?

写真の良し悪しより、その裏側に垣間見える、得たいの知れない世界に圧倒された私であった。
・・・でも次回が楽しみ (^ ^

Pentax SP / Takumar 50mm f1.4 / Kodak PORTRA 800 [恵比寿、東京]