ツイッターはお店(古本屋)の公式アカウントだから写真のこと書きづらいし、フェースブックを日記代わりに使うのもなんだし、気軽に書くにはブログが一番ということで、旧「生涯一アマチュア写真家」をリニューアルして写真の備忘録として使うことにする。毎日シャシンのことは彼是考えていて、ほんとは酒でも飲みながらぶちまけるのが一番だけど、そんなカネも時間も友人もない身だから仕方がない。
土日は久しぶりにプリントをやった。私が使うプリンターはエプソンのPX-5002という分不相応に高価なもので、これはA2サイズまで印刷できる。まともに買うと十数万する代物だが、写真仲間のJon Ellis氏から格安で譲り受けた。Windowsパソコンを使っていたときは、ドライバのせいか思うような色が出ず、ほとんど置物と化していたものだ。だが、先日6年ぶりにパソコンを新調して、MacBook Proの最新のものを(ローンで)買ったのだが、これでPX-5002を使うと恐ろしいほど捗る。使った紙はフランス製のバライタ・インクジェット用紙のCanson INFINITYというもの。詳しく言うと、5D Mark 2で撮ったものを、アドビのLightroomで少しいじって、RAWでそのまま出力。紙の選択が当たったせいかもしれないが、思った以上の仕上がりで感動して眺めること数時間。当面写真展をやる予定はないが、カラーでやるなら、いつも頭を悩ますプリント問題はこれで解決である。
何をプリントしたかというと、今年の夏頃、個人的に好きなBastard Noiseというアメリカのバンドの日本ツアーがあって、勝手に彼らのライブを撮って、これまた勝手にフェースブックにアップしていたら、先日アーティスト本人から連絡があり、写真を欲しいからプリントして送ってくれないか、と頼まれたのだ。お金はいくらかかってもいい、と言われたが、個人的にリスペクトしてるバンドだったので、プリント代と送料をくれればいい、と恰好つけてしまった。とくに後悔はしていない。今日EMSで送るつもりだが、本人が喜んでくれて、アシが出なければそれでいいのだ。
今週もいろいろやることが多い。写真家契約をしているairbnbの撮影が渋谷で2件あるし、写真コラムの連載をしている日本古書通信も年末進行で〆切が早い。そして何より、新しいWEB連載を今週中に始めなければならない。これは、ここ数年私がテーマで撮っていて、古書通信でも連載になっている古書店シリーズが、別の出版社のWEB連載として始まるものだ。ほんとは11月に始まる予定だったが、この連載に付随してフェースブックのファンページを立ち上げることになり、これの毎日の更新を義務づけられ、どういう風にしようか彼是考えているうちに日が過ぎてしまった。そこそこ素材も集まったし、もはや考えている余裕はない。やるだけである。重要な福島ノートの更新もある。子供と遊んでる場合じゃないのよね・・・。
写真家って、なによ。
by whitehead on 2012年3月5日月曜日私の本業は古本屋だが、Facebookでは写真家を名乗っている。
地味な雑誌とはいえ写真の連載を持ってるし、これから写真の仕事も増やしていきたいので、そうしている。写真家を名乗るほどの者なら誰でもそうだが、自分の写真の腕にもある信頼を持っている。
気がつけば、私の周りにも写真家を名乗る者は多い。その内実は、写真でメシを喰っている、喰ってない、キャリアが長い、短いなど、人それぞれ。そしてそれが悪いことだとは思わない。
医者や弁護士と違い、写真家を名乗るのに資格は必要ないのだ。作家や芸人と同じで、誰でも思い立てば写真家になれる。だから腕に自信があって、写真で身を立てたい、写真で世に出たい人は、恐れずに写真家を名乗るべきだ。ただ、世間が彼/彼女を写真家と認めなければ、職業としての写真家は成り立たないだけだ。
つまり、自分で写真家と名乗ることに何の意味もない。
それはただの始まりでしかない。
写真家を名乗ったその日から、彼/彼女は全生涯を賭けて自分が写真家であることを世間に認めさせる-その"事業"に成功した者を、私たちは写真家と呼ぶのだから。
その意味で、誰でも「写真家」になれるし、誰でも「写真家」にはなれない。資格がないからこそ、簡単でもあり、この上なく難しいともいえる。結局、とどのつまりは、「自分がどんな写真家として世に認められたいか」これに尽きると思う。
写真家になる道は人それぞれだ。ただし「人それぞれ」という言葉の持つ重みを知るのは、ごくわずかな写真家だけなのだ。
Thomas Orandのこと。
by whitehead on 2011年5月9日月曜日先日親友のThomas Orand(以下トマさん)の家に行って、いつものようにプリントを見せてもらった。同じ写真を撮る者として、ちょっと悔しいことに、そのとき見たプリントの衝撃がまだ収まらない。このモヤモヤをすっきりさせるためには、トマさんの写真について書くほかなさそうだ。
トマさんの写真をはじめて見たのは4年前、フリッカーの中でだ。今のトマさんは、ハッセルブラッド+モノクロ+バライタという不動のスタイルを確立している。でもその頃のトマさんはスタイルを模索していた。デジカメ、トイカメラ、35mm、中判と、いろんな機材を通じて彼の荒削りな才能がスパークしていた。この頃のトマさんの写真を見れて、私は幸せに思っている。だがトマさんの写真の速度は速かった。あっという間に彼は、自分のスタイル-自分にしか撮れない写真の型を発見した。彼は自家暗室を作り、モノクロの、正方形の写真しか撮らなくなった。彼はもう、写真を通じて「一つのこと」しか言わなくなった。その頃だろうか、彼はフリッカーにアップしていた写真をすべて削除した。私はそれを密かに嘆いたが、自分のスタイルを掴んだ彼にとって、過去の模索時代の写真は見るに耐えなかったのだろう。
トマさんの写真の現在は、インターネットの中にはない。彼が申し訳程度にやっているフリッカーも、たまにしかアップしないブログも、彼が家に行くたびに見せてくれる膨大なプリントの量に比べれば何でもない。彼は一人で写真を撮ることを好み、飲み会や友達と会うときには、愛用のハッセルブラッドは絶対に持ってこない。彼は細やかな気配りのできる、人付き合いのいい愛すべき友人だが、彼の撮影に同行を許されるのは孤独だけだ。こと写真に関する限り、トマさんほどのスーパー・エゴイストを私は他に知らない。彼は孤独を愛し、暗室で嗅ぐ薬品の香りを愛し、バライタでしか浮かび上がってこない階調を愛す。インターネットの偽りの交際よりは。


トマさんの写真に写っているものは、平凡という言葉すら無用なほどに当たり前なものばかりだ。そんな彼の写真を見るたびに、「何という自信だ」と密かに舌を巻く。見る者の眼に対する信頼、写真に対する絶対の自信なくして、かくまで平々凡々たるものを撮ることはできないだろう。それはあたかも、安易な記号や、言葉をそこに求めようとすることを絶対に拒否するかのようだ。トマさんの写真は僕らに、他の何ものでもない「写真を見る」ことを要求する。写真を、写真として見、写真として感じ、さらには写真の中に入ってくることを求める。気がつけば、ロダンの彫刻や、セザンヌの絵画の前に立つが如く、言葉を忘れ、ひたすら凝視する自分を発見する。そしてトマさんの写真を見たあとはいつも、写真という不思議なものの実体が、少しだけ「見えた」気がするのだ。
写真から受ける感じは人それぞれだろう。身近な友人の作品について、あれこれ書く失礼をしたくはなかったが、私がトマさんの写真から受ける印象を、備忘のためにここに記しておく。
Blog : THOMAS ORAND
Portfolio : Thomas Orand Photographs


